daniel-yangのブログ

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冨田勲のイーハトーヴ交響曲を聴きました3

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・ 第1楽章-岩手山の大鷲<種山ヶ原の牧歌>

の二回目(^_^;の続きです。
 
岩手山の大鷲<種山ヶ原の牧歌>は、
少年少女のアカペラ合唱「牧歌」に始まり、
管弦楽による雄大なメロディーに引き継がれ、
再び「牧歌」を足踏みオルガンのような伴奏で歌います。
 
「牧歌」は、宮沢賢治の戯曲「種山ヶ原の夜」の劇中歌です。
戯曲「種山ヶ原の夜」は、ちくま文庫宮沢賢治全集8
に収録されています。
戯曲では
伊藤(口笛で後の種山ヶ原の譜を吹く)
などと記されているのですが、上記ちくま文庫8に楽譜は収録されていません。
前回ご紹介した新潮文庫「新編宮沢賢治詩集」と合わせて、原典を確認できる仕組みです。
と言うわけで、買ってきましたよ。両方とも。
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中身は、こんな感じです。
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右がちくま文庫8の戯曲「種山ヶ原の夜」で、左が新潮文庫「新編宮沢賢治詩集」の「牧歌」歌詞と楽譜です。新潮文庫には、出典;「校本宮沢賢治全集」第六巻(筑摩書房と記されています。ならば、ちくま文庫宮沢賢治全集 全10巻の中のどこかにもこの楽譜も収録されているのではないか、と思いますが、今のところ「まとめて全部買ってしまおう」と言うところまで僕の気合いが入っていませんので、確認できません。
第一楽章中間の管弦楽によるメロディーは、ヴァンサン・ダンディの「フランス山人の歌による交響曲」冒頭のメロディーです。

冨田勲自身は、この交響曲の引用について、
宮沢賢治の種山ヶ原の夜「牧歌」に通じるものがある、
・ フランスの山人にとっての守り神であると同様にイーハトーヴの背後にそびえる岩手山の大鷲も守り神である。
と言うような意味のことを述べているに留めていますが、
片山杜秀によるCDのライナーノートでは、冨田勲とダンディの師弟関係に触れています。本作は、冨田勲が独自のオリジナリティーを追求しているのではなく、多くの先人へのオマージュになっていると、理解出来ます。
Blu-rayの特典映像(インタビュー)で冨田勲宮沢賢治を「宮沢先生は」と語っているのも納得です。
第一楽章の「牧歌」とダンディーのメロディーは、展覧会の絵のプロムナードのように、各楽章のパッセージで演奏され、交響曲全体を統一するイメージになります。
 

第一楽章のテーマは「自然と人との関わり」

宮沢賢治の作品にはいくつかのテーマがありますが、第一楽章で取り上げた牧歌と岩手山は、自然と人間の関わりを取り上げている、と僕は理解しました。
原作の「種山ヶ原の夜」は、ジブリの作品ほど具体的では無いですが、
「森の木は、本当は伐られることを望んでいない。」
と言う内容でした。
 
「刈った草をどこに置いたか忘れて、雨ざらしになってるよ。」
夜明けとともに草刈り始めるために、夜のうちに種山ヶ原に登った主人公たち。
夜明け前にうたた寝をしていると森の精霊が夢に出てきて歌います。
「お前が居眠りしている間に、草刈りは終わってしまったよ。」
「本当のところがどうなのか、知りたければ、たとえ森の木がお前に払い下げられても、木を切らないと約束をしろ。」
と、森の精霊が持ちかけます。
約束をしようか、どうしようか、と考えている主人公を急かして精霊が歌います。
 
やがて、主人公は気がつきます。
せっかく森の木が払い下げられても、木を切らないのでは、炭焼きも出来ず、意味が無い、と。
そこで、主人公は
「いやだ、約束はしない。」
と断ります。
森の精霊は、あっさり、
「それなら、それでも良いよ。」
と答えます。
 
そして、
「どこに置いたか忘れた刈草は雨に濡れるよ。」
と歌い、
主人公も、夢の中で一緒に歌い、踊ります。
 
劇は、ここまでです。主人公は夢から覚めて、仲間とともに草刈りを始めます。
 
子ども向けには、ジブリ作品のように
「大切に使うなら、必要な本数に限って炭焼きのために木を切っても良い。」
と明瞭に言ってやる必要があると思いますが、
宮沢賢治が戯曲を書いて演じさせた花巻農学校の生徒たちには、
「それならば、どうするのが良いのだろう。」
と考えさせる工夫があったのだと思います。
 
冨田勲イーハトーヴ交響曲は、宮沢賢治が自然と人との付き合い方を生徒たちに考えさせた、劇の自然の側からの問いかけで幕を開けます。
 
つづく。