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daniel-yangのブログ

メインブログ「受動態」(読書感想文ブログ)とは異なる内容を気まぐれで記します。

六文銭家紋のはじまり

歴史解説書などを読むと「六文銭[ろくもんせん]」ではなく、「六連銭[むつれんせん]」と記すのが正しいようですが(「文」は室町時代足利義満が中国から硬貨を輸入し始めた後からの通貨単位のようですね。)
主に、
と、
を引用してものがたりします。

 

ーーーー 六連銭[むつれんせん]発案ものがたり ーーーー

ワシは海野幸[うんのゆきひろ]と申す。
なじみがないかも知れないが、戦国時代に「ひのもといちのつわもの」と謳われた真田幸村の祖先である。
真田は我が海野家の分家である。

 

我が家は、残念ながら戦国時代に滅びる。
生き延びた分家の真田幸隆(幸村の祖父)が、海野家を継いで再興してくれるかと思ったら、そのまま真田の名で大名になりおった。
少年の頃に父親を亡くしたのを哀れに思い、本家で大切に育ててやったのに、にくいやつじゃ。

 

略歴を申し述べる。
真田幸隆は1513年生まれ。
遡ること二百年。第二十四代海野家当主「海野幸重」の次男幸秀が真田を名乗ったのが、真田家の始まりじゃ。
ワシは、さらに、百五十年ほどさかのぼった1163年生まれ。第十六代の海野家当主じゃ。

 

どういう時代かというと、平安時代末期。源平合戦の時代じゃ。

 

もちろん我らは源氏方に付いた。
だが、源氏と言っても、源頼朝ではなく、木曽義仲に味方したのが失敗じゃった。いや、失敗だとわかったのは、ワシが死んだ後じゃが。

 

1181年6月。木曽義仲が、我が領地で旗揚げをした。
今の地名で言うと、長野県東御市白鳥神社じゃ。
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真田幸村ファンの歴女の皆さんは、よーくご存じだと思うが、
幸村らが北条や徳川の大軍を撃退した上田城に近い海野宿の入り口の神社じゃ。

 

ーーーーー

 

木曽義仲が京の都まで上った事は有名じゃが、その軍勢の主力が、我ら海野一族だとは、ご存じなかろう。
このとき、ワシは18歳。現代で言えば高校を卒業する年じゃが、ワシの時代では、立派な武士じゃ。
ワシの他には、親父幸親[ゆきちか]39歳。弟の幸長も、木曽義仲の祐筆としてついてまいった。
ちなみに、弟の幸長は、海野幸長と言うよりも、出家した後の「大夫房覚明」と言った方が通りがよいらしい。祐筆と言いつつ、実際は、木曽義仲の軍師じゃな。ワシよりも頭が切れる。
もう一人の弟=幸氏[ゆきうじ]は、義仲の息子と行動を共にしておる。
つまり、我が一族は、木曽義仲に運命を託したというわけじゃ。

 

旗揚げ当初は弟が軍師を務めたおかげもあって、破竹の勢いじゃった。
二、三度大きな戦に勝利し、京都まで来るのにさほど時間は掛からなかった。
じゃが、京都に着いた後、仏門に目覚めた弟の幸氏が、木曽義仲の軍師をやめて、比叡山に行ってしまった後から、雲行きが怪しくなってきた。

 

もともと山国育ちで、都のしきたりもわからぬ。粗暴な振る舞いじゃと公家どもからは憎まれておったようじゃ。
そういうわけで、旗揚げから二年経った1183年9月。出陣の命が下った。
後で考えれば「平家追討」を名目に我ら木曽義仲の軍勢を都から追い出す公家どもの陰謀じゃったのだが。

 

ーーーーー

やって来ました備中水島。現代の地名で言うと、岡山県倉敷市玉島。
「海だーっ\(^o^)/」
と、山国育ちの海野一族は大喜び。
ちなみに、我が名は「海野」であるが、海とは無縁でござる。
古事記によると
日本武尊が今で言う海野平に来たときに、我が領内の池を見て、
先に恋人を海で死なせてしまったのを思い出したのじゃろう。
「この海も、野になってしまえ!」
と叫んだのが「海野」の始まりだそうじゃ。
「いや、だから、こんな山深いところに海は無いって。ヤマトさん、それは池ですよ。」
と突っ込みを入れた人がいたか、どうかは存じ上げぬ。
と、言うわけで、我ら一族は「海野」じゃが、我ら一族は海を見ることなく育ったもののふですよ。

 

ところで、総大将の木曽義仲は、7000の軍勢を引き連れて出陣したのじゃが、そのうち、3000を残して京都に戻られた。
やはり、都が心配なのであろう。
本日の大将は、足利義清どのと、ワシ海野幸広の二本立てでございます。

 

ーーーーー

 

おぉ、水面はおだやかなのに、鳴門が渦を巻いておる。
まるで、ゼニが連なっているようじゃ。
金運よし。
よし、これを我が家=海野家の家紋としよう!
衣服や、陣幕に書かれた州浜紋を、全て六つのゼニのマークに描き換えるのじゃ!

 

これが、六連銭紋の始まりです。
(原文)海中穏やかにして浪の紋渦巻きて銭連なるごとく見え、 これ吉祥なりとて、州浜紋なりしてを引替え陣幕を六連銭紋とする
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さて、戦の行方じゃが、、、
我が軍の半分以上を、木曽義仲が連れ帰ってしまったこともあり、数では負けている。
さらに、平家方は、海に慣れており、船と船を繋いで、板を渡し、移動しながら矢を射ってくる。
「船の漕ぎ手を狙って倒せば、挽回できるかも。」
と思ったが、それはルール違反と言うことですので、出来ません。
そうこうするうちに(この戦が、現代でも良く研究されている所以ですが)日食になりました。
都で陰陽師などにも知り合いがいた平家の皆さんは、どうやら、本日日食が起こることをあらかじめご存じのようでした。
が、私たちは、ビックリ仰天。
晴れていて、昼間なのに、どんどん暗くなってくる。
気づけばあたりは真っ暗だ。
しばらくすると、天は明るさを取り戻しましたが、不気味であること、この上なし。
我が軍の旗色はだいぶ悪くナリ申した。
ならば、陸に戻って、立て直し。と思ったら、平家方は、海に慣れた馬を船に乗せており、我が軍よりも早く、馬を泳がせて陸地に布陣しておる。
あな、わびし。
これにて我が一生はおしまい。戦死致しましたのでございます。
もう一人の大将足利義清さまもお討ち死。
都落ちした後の平家にとっては、これがほとんど唯一の勝ち戦だそうです。

 

我が家も、これにてオシマイ
とは、ならず、弟の幸氏が、木曽義仲の息子を助けて逃亡中に源頼朝の手先に捉えられたものの、敗軍の将の息子を見限らずに、最後まで助けたのが「あっぱれ」と賞され、頼朝公の御家人に取り立てられ、後々、真田まで続くのでございました。

 

まとめ
「六連銭」の家紋は、制定したその日に、大敗。当代の当主も戦死する幸先の悪い家紋となりました。
ただし、戦死した私=海野幸広の三途の川の渡し賃にはなったかもしれません。
六連銭の家紋をご使用なさるときには、皆様もあらかじめ死を覚悟してお使い下さい。

 

と言う発祥もあってか、平時、真田家は雁がねを家紋とし、(六連銭は武具オンリー)
氏神白鳥神社は、引き続き州浜の紋をご使用されています。
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それでは、これから梅雨も末期。水には気をつけて、ご無事に楽しい夏を迎えましょう。