daniel-yangのブログ

メインブログ「受動態」(読書感想文ブログ)とは異なる内容を気まぐれで記します。

小僧の神様の倫理観とは?

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高知龍馬空港から羽田に向かう飛行機から見た富士山(本文とは関係ありません)

他人の子供にお寿司をご馳走して良いですか?

その「倫理観」とはなんですか?
具体的に記しませんでしたので(汗)
続きです。
 
「他人の子供にお寿司をご馳走して良いのですか?」
と言うことだと思います。
 
ここで、
「他人の子供にお寿司をご馳走して何が悪いの?」
とおっしゃる方もいらっしゃると思います。
そのような方にとって、この小説は
「小僧が寿司をご馳走になって、ご馳走した人が神様だったかもしれない、と不思議に思う」だけの小説です。

他人の子供にお寿司をご馳走して何が悪いのか?

小僧にお寿司をご馳走することは、自分の子供に食事を与えることとは異なります。
自分の子供は、自分が養育者です。養育しなければなりません。養育の一環として職業に就いていない自分の子供に、養育者である親が食事を与えなければなりません。
しかし、小僧は、Aの子供ではありません。よって、Aが小僧に食事を与えることは養育ではありません。
小僧は、秤屋で働いている小僧です。秤屋から給料をもらうか、または給料ではなく、お店で食事を与えられるかして、生活しています。
小僧はAに養育されていません。
つまり、僕は、Aが小僧を養育していないから、お寿司をご馳走することは倫理に反すると感じたわけです。
 
小僧は飢えて死にそうな子供ではありません。
 生活に困っているわけでもありません。
成長の途中ですが、働いて、毎日ちゃんと食事をしているようです。
そして、やがて大人になります。順調に昇進し、番頭になれば、 他の生活費とのバランスを考えながら、 自分の好きなようにお金を使うことが出来るようになるはずです。
その時になって、まだ寿司が食べたければ、他には道楽を持たず、寿司を食べに行けばよいし、寿司よりも好きなことが見つかれば、例えば芝居見物に行けばよい。
小僧は多少の努力で、その余裕ある身分を勝ち取ることが出来る立場にいます。
しかし、Aの「おごり」は小僧の未来を、自助努力への動機を喪失させると言う意味で奪ってしまった可能性があると思います。
「また、神様が現れて僕にお寿司をご馳走してくれないかな。」
と、小僧が期待し、仕事に対する熱心さを失ったとしたら、それはAのおごる心がもたらした小僧への災いです。
小僧が食べた寿司は、仕事への対価ではありません。
また、おごる動機も、Aの身分も明かさず、少年を一人お店に残し逃げ去っています。
これが、小僧の神様の正体です。
Aは、人に食べ物をおごることを「冷や汗ものだ。」と記していますが、
「何故冷や汗を掻くのか?」
と言えば、小僧の向上心を損なう事が危惧されるからだと思いました。
ただし、小僧はかなり利発であり、神様の再来を期待して、仕事への熱心さを失うことはなさそうですが。

人とは対等に接しなければならないと言う倫理観

もう少し一般的な言い方をすると、
働いている人に対しては、
たとえ相手が子供であろうとも、
自分より給料が安かろうとも、
「対等に接しなければならない。」
と言う倫理が述べられているのだと思います。
Aが冷や汗ものと感じたのは、小僧に対して対等な立場に立たず、寿司も好きに食べることができない安月給のものとして見下した後ろめたさなのではないかと思います。
自分のおごった心に気が付き、後ろめたく感じたのだと思います。
おごる平家は久しからず。
のおごる心です。人に食事を提供することをおごると言うのは、このようなおごった自分を露悪的に表現した言い方なのだな。と、気が付きました。

違う考え方もある

ただ、最近思うのは、
「人とは対等な人間関係を築くべき」
と言う倫理観が、案外、通用する範囲が狭い。と言うことです。
例えば、Aのおごりを「小僧への寄付」だと考え、裕福な者は、そうでない者へ機会があれば寄付をするべき。と言う考え方を持っている人は、僕が上に記したような「対等であるべき」と言う理屈はオカシイ理屈と感じられるかも知れません。例えば「寄付をしたくないために、考え出した屁理屈」と受け取られるかも知れません。
また、
「対等な関係」
を、安直に
「軽い口がきけるあいだがら。」
と理解して、それ以上考えない人が多いように思います。
そして、そのよう安直な人は、
軽い口をきける人以外については、
「へりくだるか」
「みくだすか」
どちらか一方を選んでいるように思います。

対等な関係とは

「対等な関係」
と言うのは、
相手と自分との立場がどうであれ、
年上であろうが、年下であろうが、
上司であろうが部下であろうが、
同性であろうが、異性であろうが、
相手を尊重し、丁寧に接する態度だと思います。
小説のケースであれば、Aが少年に対し、お寿司をご馳走したい気持ちを正直に告げ(※)
(※)例えば、「オジサンは、常々自分がお金持ちであることを引け目に感じているんだ。たいして人の役に立つ仕事をしているわけでもないし、大変な勉強や努力をして今の仕事に就いているわけでもない。また特殊な能力があるわけでもない。
だから、真面目に働いている君が、とてもお寿司を食べたいと思っていて、でも食べられないでいるのを見過ごす事が心苦しい。ズルでお金持ちの自分が、さらに卑怯者になっているように感じられる。もちろん、そんな僕の気持ちは君には関係のないことで、無関係の他人から食事をおごられるなんて事は、君のプライドが許さないだろうと思う。でも、どうだろうか。この心が貧しく、お金だけは持っている僕の後ろめたさを和らげるボランティアとして、一つお寿司をおごられてくれないか。」というのはいかがでしょうか?
小僧の同意を得ておごるならば、
かろうじて対等な関係を維持できるのではないか、と思います。
 
丁寧に接することにより、
「自分も、同様に尊重してね」
と期待し、
それが、可能である、と感じられる相互の感覚。
これが「対等な関係」だ、と僕は思います。