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daniel-yangのブログ

メインブログ「受動態」(読書感想文ブログ)とは異なる内容を気まぐれで記します。

フィリフヨンカの不幸

幸せな家庭は、みな同じように幸せに見えるが、不幸な家庭は、それぞれに異なった様相で不幸だ。と言うのは、トルストイ(Лев Николаевич Толстой 露 1928~1910)の傑作長編小説「アンナ・カレーニナ(Анна Каренина 露 1877)
アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

 
の冒頭だそうです。
 
今晩は、僕が無謀にも心理学用語ふうみで”ある種の不幸”を命名、定義してみようと思います。

フィリフヨンカの不幸

定義:”ある能力”が欠如している事により引き起こされる不幸。”ある能力”とは、他人の行動の動機を想像する能力の事。
説明:フィリフヨンカはトーベ・ヤンソン(Tove Marika Jansson 1914/ 8/ 9 ~ 2001/ 6/27)ムーミンシリーズに登場する妖精です。小説に登場するフィリフヨンカは、全て一人暮らしの大人の女性。貴族風の家に住んでいます。そして、いつも悲しんでいます。
フィリフヨンカの哀しみの原因は、他人の非常識な行為です。ただし、非常識と言うのは、フィリフヨンカが「非常識」と感じるのであって、第三者が見ると、必ずしも非常識とは言えない行為です。
フィリフヨンカは「自分の言うとおりにしてくれない」「期待通りの事を言ってくれない」「非常識な事をしている」と悲しみます。
でも、それらの他人の行為は(端から見ると)悲しまなくても良いものが多いのです。
なぜ悲しまなくても良いのか、と言うと、
他人が自分とは異なる世間常識に従っている場合、
何かの事情があっての場合、
など。悪意をもって意地悪をしているのでは無い、とフィリフヨンカが理解すれば、取り立てて悲しんだり、腹を立てる必要がないものばかりだからです。
しかしながら、フィリフヨンカは、他人の事情や、そのときの気分、体調の都合などを想像しません。ですので、他人が自分の思ったとおりの事をしてくれないとき、悪意があると考えます。結果、彼女は、周囲の人が皆彼女へ意地悪をしているように感じられます。または自分を軽んじ、まともに言うことを聴いてくれていないように感じられます。
特に接触が多い家族など。身近な人がフィリフヨンカに対して意地悪をしているように感じられます。
身近な人に常に軽んじられ、意地悪をされていれば、幸せであるはずがありません。
フィルフヨンカの不幸とは、
周囲の人が自分の思った通りの事をしてくれないとき、
言ってくれないとき、
聴いてくれないときに、
相手に悪意があると思い込み、孤独を感じる事による不幸です。
ヤンソンの小説の中のフィリフヨンカは、みな一人暮らしですが、あるいは家族を避け、一人暮らしを選んだのかもしれません。

フィリフヨンカ

例えば、シリーズ第五作の「ムーミン谷の夏祭り」
新装版 ムーミン谷の夏まつり (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の夏まつり (講談社文庫)

 
では、習わしに従って、夏祭りイブに伯父と伯母をパーティーに招待します。でも、叔父からは返事すらもらえず、フィリフヨンカは悲しんでいます。
実際は、伯父は既に他界しており、パーティーへの招待自体が親族としては失礼な行為でした。
シリーズの最終話「ムーミン谷の十一月」
新装版 ムーミン谷の十一月 (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の十一月 (講談社文庫)

 

では、ムーミン屋敷を訪れて、掃除が行き届いていない事に気付きます。ムーミンママが掃除をやめた事を「勝手」と評し、腹を立てます。でも、実際は、ムーミンママは掃除をやめたのではありません。ムーミン一家はこの屋敷を引き払い、引っ越しをした後だったのです。

作中のフィリフヨンカは、それぞれ途中で間違いに気が付き、哀しみは治まりますが、他人の行動の動機を想像する能力が欠如している事により引き起こされる不幸の中の人として典型例のように思えましたので命名に使ってみました。

例1[叱る、たしなめる]

:他人が愚行をしているように思えるとき、相手が身近な人で、自分の立場が上であれば、叱ることがあります。
または少し丁寧にたしなめるようにやさしく言って上げることも出来ます。
ただし、実際のところ愚行をしているように見える本人は、敢えて愚行をしているのではなく、例えば、何か工夫をしたのだけれどうまく行かなかった場合があります。
また、やむにやまれぬ事情で仕方なく愚行をしているように見えてしまった場合も考えられます。f:id:Daniel_Yang:20150923033851j:plain
他にも、迷惑を掛けぬように気を配りながら、自分の趣味を実行していたり、休暇を楽しんでいる場合もあります。
仕事から帰ったら、家ではリラックスしたいです。靴下を半分だけ下げて楽にして、ソファーに寝転がってTVを観ても良いではありませんか。
でも、彼がフィリフヨンカに気を許し、気安い家庭の雰囲気を作ってくれている事に感謝している。と、フィリフヨンカは思い至りません。
自分の存在を無視し、勝手に振る舞う躾が行き届かない間違った人。と認識するのです。
そして、叱りつけます。
「ちゃんとソファーに座ってテレビを観なさい。」
「靴下を脱いで、洗濯機に入れてきなさい。」
と。
口やかましく感じた家族は、子供ならば、早く家を出て独り立ちしたい。と独立心が芽生えるかもしれませんが、それが配偶者ならば、口うるさいこの配偶者がどっか遠くに行ってくれないかな。と思うかも知れません。
仲睦まじい、家庭を作ることが出来ず不幸の中に入っていきます。
 
単に習慣が違う場合もあります。
例えば[鼻をすする]か、[鼻をかむ]かの選択は、国や地域によって違うようです。
僕が育った家庭では人前で音を立てて鼻をかむのは、人前でおならをするのとほぼ同等の子供じみた(子供もやらない)行為です。
ですので、どちらかというと鼻をすする方がましです。
ですが、鼻をすする方がNGで、鼻をかむことが推奨される地域もあるようです。
目の前の恋人が鼻をすすった時に「あなたのためだから」と鼻をすすることをたしなめて、鼻をかむようにちり紙を差し出し、悪習を改めるように諭したときに、親切のつもりがフィリフヨンカの不幸となります。
 相手の恋人が、それぞれの習慣があることを知っている場合は、たしなめる恋人に対して「私の常識を悪習と決めつける狭量な人」と感じられ、少し嫌われるかもしれません。
f:id:Daniel_Yang:20150923033911j:plain相手の恋人が、自分の常識しか知らなければ「非常識な事を私に強いる嫌な人」と、やはり少し嫌われるかも知れません。
 
親切で恋人に悪習を改めるように諭したつもりが、嫌われてしまう。恋人との仲違いがフィリフヨンカの不幸です。

例2[叱ることができない場合]

自分の立場が上の場合には、叱ったり、たしなめたり、自分の思ったとおりの行動をしていない事を指摘出来ます。

しかしながら、相手が親や、怖い配偶者の場合、叱ることができない場合があります。

そのときは、自分の立場が弱いことに哀しみながら、黙認することになります。

承認欲求が満たされない環境の中にいる事によるフィリフヨンカの不幸です。

例外1[TVを観ている場合]

:恋人同士では仲違いからの不幸に発展するフィリフヨンカの不幸ですが、立場が異なると不幸にならない場合があります。
例えば、TVを見ている場合。時々街角でものの使い方や、料理方法を市民に尋ね、知らなかったり、間違った方法を試みる人を見て笑う(悪趣味な)番組を見かけます。
テレビ視聴者は、失敗する街角の市民を「非常識」「不勉強」など見下して笑う嗜好です。
知り合いに面と向かって「非常識」「不勉強」と罵ればフィリフヨンカの不幸となります。
でもTVの向こう側の市民には、茶の間でみかんを食べながら罵るあなたの声は届きません。立場も無関係です。好きなだけ、叱り、罵る事ができます。ですので、TVの向こうとこちらのあいだでフィリフヨンカの不幸は発生しません。

例外2[争っている場合]

:以前学生にディベートを実践させている授業を見学したことがあります。
ディベートの場合は相手を黙らせたり、ぎゃふんと言わせればOKとレクチャーされていました。
f:id:Daniel_Yang:20150923033921j:plain自分の認識が的確か、と考える必要はありません。ロジックも不要です。
相手が答えづらい質問をして、答えに窮しているあいだに
「ほら、こたえられないじゃん。」
と言ってやればOKです。
 
国会中継の質疑応答を聴くと、支離滅裂な場合が多いです。あれはディベートのルールに則っていたのだ。と今になって気が付きました。
ただし、不幸にはなりませんが、コミュニケーションにもなりません。
ディベートの訓練とは、人との絆を断ち切るための特訓であり、建設的に何かをする場合には、無駄な能力でした。

例外3[これっきりにしたいとき]

:自分の言うことを聴く部下が充分にいる場合もフィリフヨンカの不幸は発生しません。
ロジカルに欠点を指摘してきた部下がいたら(本来ならフィリフヨンカの不幸を引き起こす)トンチンカンな難癖を付けて却け、愚行だ、ナマケモノだ、不真面目だと喧伝して却ければ良いです。
彼一人左遷して部下が減っても、自分の言うことを聴くイエスマンが充分に確保出来ているので不幸にはなりません。
f:id:Daniel_Yang:20150923033934j:plain同様に別れたい恋人に対しても、雑に扱えば良いです。

改善しません。

:フィリフヨンカの不幸の中にいる人は、問題は他人にあると認識し、改善するには他人が言動を改める必要がある、と認識しています。
他人に問題があるのだから、と自分で工夫することがありません。
言って聴かない相手には、同じ言葉を大きな声で繰り返すだけです。言い方を変えてみる、とか、タイミングを計って別な時に言ってみるなどの工夫をしません。
フィリフヨンカの不幸にいる人が、自分の不幸に気が付いたとしても、その不幸から脱出する手段=他人を理解する事が必要だと思い至ることはありません。
フィリフヨンカの不幸の中にいる人は、そのまま歳を取り、不幸のまま一生を終えます。
 
観光地に行くと、ときどき、連れを叱ってばかりいるカップルを見かけます。「休日なのだから」とか「遊びに来ているのだから」など大目に見ることはなく、逆に大げさに「人の道に外れている」などと叱りつけている人を見かけたこともあります。楽しいデートをしているようには見えませんでした。おそらくあまり仲の良くないカップルとして、そのまま一生を終えると思います。または頃合いを見計らって別れるのでしょう。
 
職場で年を重ねた人も、そのままです。
「使えない奴ばかりだ」
とか、
「言っても解らない若者ばかりだな。」
と、愚痴をこぼしつつ定年退職を迎えます。
「やっと、トンチンカンなオヤジがいなくなった。」
と残った職場の人にほっとされるっことでしょう。
 
フィリフヨンカの不幸を回避できる人は、たとえ他人に問題があっても、自分が出来ることを探します。または放っておく(許す)事ができます。
他人の行動を改めさせるのは、とても難しいです。
一方、自分で出来ることを思いつくと、それを実行するのは比較的容易です。
 
ところで、フィリフヨンカの不幸の中にあっても、改善するケースが二つ思い当たります。

改善するケース1[立場が弱い場合]

一つは立場が弱い人の場合。立場が強い人は、人を叱っていれば良いので改善しませんが、立場が弱いと、自分で工夫する必要が生じます。
自分で工夫をし始めると、相手を観察し、何を考えているのかも考えるようになります。
すると、フィリフヨンカの不幸に気が付き、手を打つ事ができるようになります。

改善するケース2[子育ての経験]

もう一つは、子育てをしている人の場合です。
知人から聞いた話しです。
f:id:Daniel_Yang:20150923033945j:plain彼曰く
「泣いているこどもに『泣くな』と叱っても、泣きやみませんからね。」
でした。
なぜ泣いているのか、子供の心理を考えるようになったそうです。
ただし、直ぐに改善したわけではありませんでした。最初は、わからずに困るばかりだったそうです。でも考えているうちに、やがて何となくわかるようになり、工夫して対応が出来るようになったそうです。
 
別の人から聞いた話しです。
職場に新米係長になって張り切っている人がいたそうです。後輩を叱咤激励してうるさいぐらいに、口やかましかったそうです。
しばらくすると、係長が育児休暇を取得しました。職場が静になりました。
でも、育児休暇を終えて戻ってくると「また、やかましくなるのかな」と同僚は憂鬱でした。
ところが、育児休暇を終えて職場復帰した係長の態度は一変していました。
仕事を指示するときにも、やって欲しいことを伝えたら、後輩が仕事に取り組む様子を見守り、なるべく口を差し挟まないようになったそうです。
後輩がうまく仕事が出来なかった場合でも、よく話を聞いて、一緒に上手くいくように考える、理想の上司になったそうです。
 
順風満帆なときほど、注意を要する、と言うのは、もしかしたら
「強い立場だからフィリフヨンカの不幸に気が付かない。」
と言うことかも知れません。
逆境は人を育てる、と言うのも、同様ですね。