39段の始皇帝35年の記述でしょうか。
例によって、
からの引用です。
と、ATOKを使って日本文字に変換
書き下し。
三十五年、道を除(はら)い、九原道(より)雲陽に抵(いた)る。山を塹(ほ)り谷を堙(うず)め、之に直に通ず。是に於て始皇、以為(おもえ)らく、咸陽は人多く、先王の宮廷は小なり。吾聞く、周の文王は豊に都し、武王は鎬に都し、豊鎬の間は、帝王の都なり、と。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に作営す。先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上は以って万人を坐す可く、下は以って五丈の旗を建つ可し。周馳せて閣道を為し、殿下自(よ)り直ちに南山に抵る。南山の顛(いただき)を表し以って闕と為す。道復為り、阿房自(よ)り渭を渡り、之を咸陽に属し、以って天極の閣道の漢を絶り、営室に抵(いた)るを象(かたちど)るなり。阿房宮未だ成らず。成らば、更に令名を択(えら)びて之に名づけんと欲す。宮を阿房に作る、故(ゆえ)に天下、之を阿房宮と謂う。隠宮、徒刑の者七十余万人、乃(すなわ)ち分れて阿房宮を作り、或いは麗山を作らしむ。北山の石を発し、乃(すなわ)ち蜀、荊の地の材を写し、皆至る。関中の宮を計るに三百、関外は四百余。是に於いて石を東海上の煦界の中に立て、以って秦の東門を為す。因りて三万家を麗邑に、五万家を雲陽に徙(うつ)し、皆復して事えざること十歳。
現代語訳
「咸陽は人口が多い。一方、先王(荘襄王)の宮廷は小さい。」「周の文王は豊を都にした。武王は鎬を都にした。豊と鎬の間は帝王の都だ、と俺は聞いたことがある。」「ならば、俺は渭南の上林苑中に我が王朝の都を作ることにしよう。」「まず、政治を行う表の庁舎を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、殿上は数万人が座れる広さ、殿下には五丈の旗を立てよう。」「二階建ての回廊を作ろう。宮殿の殿下から南山の頂上まで。頂上に大きな門を立てて、宮殿の正門だ、と公布するのだ。」二階建ての回廊が完成し、阿房から渭水を渡って咸陽までがつながった。阿房を北極星に、咸陽をペガサス座のα星、β星に見立て、天の川であるところの二階建て回廊でつなげた形である。宮中での強制労働の刑に服しているもの、そのほかの受刑者も含めて七十万人あまりを動員した。諸宮の数を数えると、関中に三百。関外には四百あまり。この建設工事のために、民家三万世帯を麗邑に、五万世帯を雲陽に移住させた。
例によって、全く漢文のお勉強をしていないワタクシ=Daniel Yangの訳なので、あまりアテにしないでください。
なお、咸陽と阿房の位置関係は、
地図を広域にして、西北の咸陽市をご確認ください。
によると、片道16.9km、渋滞なしで22分の距離と表示されました。
これを、二千二百年前に、二階建ての回廊でつないで、間の山の頂上にデッカイ山門を築いて正門とするのですから、まぁ、大工事ですよね。
しかも、始皇帝の存命中に完成せず、二代、三代と工事を続けたまま、秦は滅亡。
阿房が、阿呆に変形し、日本語では「あほう」と誰でもが知っているののしりの言葉として定着しているのも、なんとなく納得できるような気がします。
長くなりましたので、「馬鹿」は、次回に記すことにします。
追記:書きました。