daniel-yangのブログ

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馬鹿と阿呆の語源

「馬鹿」も「阿呆」も語源は史記(B.C. 91 司馬遷の秦始皇本紀。
「阿呆」は、秦の始皇帝が、中国統一後に阿房宮と言う無駄な公共工事をした、その阿呆さ加減を揶揄して言うらしいです。(阿房宮→阿房→阿呆)
39段の始皇帝35年の記述でしょうか。
例によって、
からの引用です。
三十五年,除道,道九原抵雲陽,塹山堙谷,直通之。於是始皇以為咸陽人多,先王之宮廷小,吾聞周文王都豐,武王都鎬,豐鎬之閒,帝王之都也。乃營作朝宮渭南上林苑中。先作前殿阿房,東西五百步,南北五十丈,上可以坐萬人,下可以建五丈旗。周馳為閣道,自殿下直抵南山。表南山之顛以為闕。為復道,自阿房渡渭,屬之咸陽,以象天極閣道絕漢抵營室也。阿房宮未成;成,欲更擇令名名之。作宮阿房,故天下謂之阿房宮。隱宮徒刑者七十餘萬人,乃分作阿房宮,或作麗山。發北山石槨,乃寫蜀、荊地材皆至。關中計宮三百,關外四百餘。於是立石東海上朐界中,以為秦東門。因徙三萬家麗邑,五萬家雲陽,皆復不事十歲。
と、ATOKを使って日本文字に変換
三十五年、除道、道九原抵雲陽、塹山堙谷、直通之。於是始皇以為咸陽人多、先王之宮廷小、吾聞周文王都豊、武王都鎬、豊鎬之間、帝王之都也。乃営作朝宮渭南上林苑中。先作前殿阿房、東西五百歩、南北五十丈、上可以坐万人、下可以建五丈旗。周馳為閣道、自殿下直抵南山。表南山之顛以為闕。為復道、自阿房渡渭、属之咸陽、以象天極閣道絶漢抵営室也。阿房宮未成;成、欲更択令名名之。作宮阿房、故天下謂之阿房宮。隠宮徒刑者七十余万人、乃分作阿房宮、或作麗山。発北山石槨、乃写蜀、荊地材皆至。関中計宮三百、関外四百余。於是立石東海上煦界中、以為秦東門。因徙三万家麗邑、五万家雲陽、皆復不事十歳。
書き下し。
三十五年、道を除(はら)い、九原道(より)雲陽に抵(いた)る。山を塹(ほ)り谷を堙(うず)め、之に直に通ず。是に於て始皇、以為(おもえ)らく、咸陽は人多く、先王の宮廷は小なり。吾聞く、周の文王は豊に都し、武王は鎬に都し、豊鎬の間は、帝王の都なり、と。乃(すなわ)ち朝宮を渭南の上林苑中に作営す。先ず前殿を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、上は以って万人を坐す可く、下は以って五丈の旗を建つ可し。周馳せて閣道を為し、殿下自(よ)り直ちに南山に抵る。南山の顛(いただき)を表し以って闕と為す。道復為り、阿房自(よ)り渭を渡り、之を咸陽に属し、以って天極の閣道の漢を絶り、営室に抵(いた)るを象(かたちど)るなり。阿房宮未だ成らず。成らば、更に令名を択(えら)びて之に名づけんと欲す。宮を阿房に作る、故(ゆえ)に天下、之を阿房宮と謂う。隠宮、徒刑の者七十余万人、乃(すなわ)ち分れて阿房宮を作り、或いは麗山を作らしむ。北山の石を発し、乃(すなわ)ち蜀、荊の地の材を写し、皆至る。関中の宮を計るに三百、関外は四百余。是に於いて石を東海上の煦界の中に立て、以って秦の東門を為す。因りて三万家を麗邑に、五万家を雲陽に徙(うつ)し、皆復して事えざること十歳。
現代語訳
秦の始皇帝三十五年、九原から雲陽までの直通道を切り開いた。山を掘り、谷を埋める大工事だった。工事が完成し、秦の始皇帝は思った。
「咸陽は人口が多い。一方、先王(荘襄王)の宮廷は小さい。」
「周の文王は豊を都にした。武王は鎬を都にした。豊と鎬の間は帝王の都だ、と俺は聞いたことがある。」
「ならば、俺は渭南の上林苑中に我が王朝の都を作ることにしよう。」
「まず、政治を行う表の庁舎を阿房に作る。東西五百歩、南北五十丈、殿上は数万人が座れる広さ、殿下には五丈の旗を立てよう。」
「二階建ての回廊を作ろう。宮殿の殿下から南山の頂上まで。頂上に大きな門を立てて、宮殿の正門だ、と公布するのだ。」
 二階建ての回廊が完成し、阿房から渭水を渡って咸陽までがつながった。
阿房を北極星に、咸陽をペガサス座のα星、β星に見立て、天の川であるところの二階建て回廊でつなげた形である。
完成したら、良い名を選んでつけようと思うのだが。阿房宮はなかなか完成しない。そこで、そのまま阿房宮と言うことになった。
宮中での強制労働の刑に服しているもの、そのほかの受刑者も含めて七十万人あまりを動員した。
動員した七十万人を阿房宮建設と、兵馬俑で有名な始皇帝廟建設に分けて作業に従事させた。
北山から切り出した石、蜀(現四川省)、荊州(現湖北省)からも建材を取り寄せた。
諸宮の数を数えると、関中に三百。関外には四百あまり。
この建設工事のために、民家三万世帯を麗邑に、五万世帯を雲陽に移住させた。
例によって、全く漢文のお勉強をしていないワタクシ=Daniel Yangの訳なので、あまりアテにしないでください。
なお、咸陽と阿房の位置関係は、中国古典の訳著者徳田隆のウェブサイト
で地図が拝見できます。
現在阿房は西安市の一部、咸陽は西安市の西に隣接した市となっています。
によると、片道16.9km、渋滞なしで22分の距離と表示されました。
これを、二千二百年前に、二階建ての回廊でつないで、間の山の頂上にデッカイ山門を築いて正門とするのですから、まぁ、大工事ですよね。
しかも、始皇帝の存命中に完成せず、二代、三代と工事を続けたまま、秦は滅亡。
漢が、安房の郊外南に長安を築いて都とし、現代の西安市まで続くわけですが。
阿房が、阿呆に変形し、日本語では「あほう」と誰でもが知っているののしりの言葉として定着しているのも、なんとなく納得できるような気がします。
 
長くなりましたので、「馬鹿」は、次回に記すことにします。