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「馬鹿」~馬鹿と阿呆の語源 その2

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photo : 祈年殿(中華人民共和国北京市世界遺産天壇公園祈年殿) by Daniel Yang November 23rd, 2004
「馬鹿」も「阿呆」も語源は史記(B.C. 91 司馬遷の秦始皇本紀。
の続きです。
 

馬鹿

「馬鹿」は、秦の二世皇帝にまつわるエピソードが語源。という説があるそうです。
皇帝に鹿を献上して
「馬を差し上げます。」
と、言った馬鹿家臣がいたそうです。
 
57段の二世皇帝三年の記述です。 例によって、
からの引用です。

原文

三年,章邯等將其卒圍鉅鹿,楚上將軍項羽將楚卒往救鉅鹿。冬,趙高為丞相,竟案李斯殺之。夏,章邯等戰數卻,二世使人讓邯,邯恐,使長史欣請事。趙高弗見,又弗信。欣恐,亡去,高使人捕追不及。欣見邯曰:「趙高用事於中,將軍有功亦誅,無功亦誅。」項羽急擊秦軍,虜王離,邯等遂以兵降諸侯。八月己亥,趙高欲為亂,恐群臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世,曰:「馬也。」二世笑曰:「丞相誤邪?謂鹿為馬。」問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高。或言鹿(者),高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。

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三年、章邯等将其卒囲鉅鹿、楚上将軍項羽将楚卒往救鉅鹿。冬、趙高為丞相、竟案李斯殺之。夏、章邯等戦数却、二世使人譲邯、邯恐、使長史欣請事。趙高弗見、又弗信。欣恐、亡去、高使人捕追不及。欣見邯曰:「趙高用事於中、将軍有功亦誅、無功亦誅。」項羽急撃秦軍、虜王離、邯等遂以兵降諸侯。八月己亥、趙高欲為乱、恐群臣不聴、乃先設験、持鹿献於二世、曰:「馬也。」二世笑曰:「丞相誤邪?謂鹿為馬。」問左右、左右或黙、或言馬以阿順趙高。或言鹿(者)、高因陰中諸言鹿者以法。後群臣皆畏高。

書き下し

三年、章邯等、其の卒を将(ひき)いて鉅鹿を囲む。楚の上将軍項羽、楚の卒を将い、往きて鉅鹿を救う。
冬、趙高丞相と為り、竟(つい)に李斯を案じて之を殺す。
夏、章邯等戦いて数(しばしば)却(しりぞ)く。二世人を使わして邯を譲ぜむ。邯恐れ、長史欣を使わして事を請う。趙高見(まみ)えず、又信ぜず。欣恐れ、亡(に)げ去る。高人を使わして追捕(ついぶ)するも及ず。欣は邯に見えて曰く「趙高は事を中(うち)より用いる。将軍功有るも亦誅され、功無くとも亦誅せられん。」
項羽急に秦軍を撃ち、王離を虜す。邯等遂に兵を以(もっ)て諸侯に降る。
八月己亥、趙高乱を為さんと欲し、群臣の聴かざるを恐る。乃(すなわ)ち先ず験を設け、鹿を持して二世に献じて曰く「馬也。」と。二世笑いて曰く「丞相誤ったか。鹿を謂いて馬と為す。」と。左右に問う。左右は或いは黙り、或いは馬と言い、以て趙高に阿(おもね)り順(したが)う。或いは鹿と言い、高因りて鹿と言う者諸(もろもろ)を法を以て陰(ひそか)に中(あ)たる。後、群臣皆高を畏る。

現代語訳

秦の二世皇帝(嬴胡亥、B.C. 230 ~ 207)の三年。西暦では紀元前二〇七年。
秦に陰りが差していました。諸国を従えて史上初の統一国家を築いた始皇帝(嬴趙政、B.C. 259 ~ 210)の死からわずか三年です。
前年の大規模な反乱を平定させた英雄章邯(? ~ B.C. 205)将軍は、再び反乱平定に向かうこととなりました。
向かう先は、反乱を起こした趙の王が立て籠もる鉅鹿です。
しかし、楚が援軍を出しました。項羽(B.C. 232 ~ 202)将軍の登場です。項羽将軍の活躍の前にさすがの英雄章邯将軍も退却することとなりました。
 
外交がうまくいかないときに、国内で一致団結して外に立ち向かえば、なんとかなることもあるでしょう。
しかし、往々にして、外交がうまくいかないときには、国内でも権力争いなどが起きるものです。これを内憂外患と言います。
始皇帝を支えて、統一国家建国に貢献した李斯(? ~ 208)。しかし、彼も始皇帝の死後に末子である胡亥を無理矢理二世に据えて、傀儡政権とし、自ら国家の指導者たらんと企みました。この胡亥擁立に協力したのが、趙高(? ~ B.C. 207)始皇帝のお気に入りだった人です。結局英雄始皇帝も、晩年かわいがるべき部下を見誤ったと言うことですね。
腹心の李斯、かわいい寵臣趙高に裏切られたわけです。後継者として遺言した長男扶蘇(? ~ 210)は二人から偽勅を送られ殺されてしまいました。
趙高にとっては、李斯さえ居なくなれば、二世皇帝擁立の陰謀を知るものもいなくなります。と、言うわけで、この年の冬、丞相(現代日本での首相)に就任した趙高は、李斯を罠にはめて(二世皇帝に疎まれるように仕組んで)あらぬ罪を着せ、殺しました。
 
夏になると、章邯将軍は、勢いに乗った項羽の軍に負け戦を続けていました。
二世皇帝は、章邯将軍に使者を出しました。
「なんで、負けばっかりなんだよ。」
と。
本来なら、章邯将軍は一旦都に戻って直接皇帝に事情を説明し、詫びるべきところです。
しかし、都に戻るのが怖い。政争に巻き込まれることが懸念されます。自分の代わりに司馬欣(? ~ B.C. 203)を使いに出しました。
趙高は、使者である司馬欣に会おうとしません。また信用もしていない様子でした。
欣は、怖くなって都から逃げ去りました。趙高は追っ手を差し向けましたが、捕獲には至りませんでした。
司馬欣は、章邯将軍の元に戻ると、状況を報告しました。
「趙高が都で内政を欲しいがママにしています。」
「章邯将軍に功があっても、殺されてしまうでしょう。また、功が無くてもやっぱり殺されてしまうと思います。」
と、言ったところに、項羽将軍が攻めてきました。このときも負けいくさです。
頼りにしていた王離将軍は捕虜になりました。もう、だめぽ。ついに、遂に降参。項羽将軍の前にひざまずいたのでした。
 
これで、秦の軍隊は無くなりました。裸同然。
他国を従えるどころか、自国の自立も出来ない状態です。
このような状態を「国が滅んだ。」と言うのでしょう。
 
さて趙高です。
今まで、二世皇帝は、宮中で楽しく遊ばせ、外の様子は耳に入れないようにしてきました。
しかしながら、都に項羽将軍の軍隊が迫ってきています。ばれること必定。
二世皇帝を殺して、うまく項羽将軍に取り入ることにしました。
しかし、傀儡とはいえども、皇帝。閣僚のなかには、自分よりも皇帝に親しみを覚えている者もいるでしょう。
あぶり出しをします。江戸時代の日本で言えば、踏み絵ですな。
鹿を連れてきました。
閣僚が居並ぶなか、趙高は鹿を引いて、皇帝の前に差し出しました。
「珍しい馬が手に入ったので、皇帝に献上します。」
と。
皇帝は
「何の冗談だろう?」
といぶかしく思いましたが、まずは、冗談として笑って応えました。
「趙高丞相、何を間違えているんだい。鹿をさして馬と言うとは。あはは。」
と。そして、左右の大臣に尋ねました。
「オカシイね、鹿を差し出して、馬を献上しますだってさ。」
と。
左右の大臣は、或いは黙って答えません。
あるいは、
「いえ、これは馬です。」
と、趙高におもねって、皇帝をないがしろにする者もいました。
 
中には、
「いえ、これは鹿です。」
と皇帝に忠実で誠実な者もいました。
が、しかし。
閣議が解散になった後日。
「鹿ですよ。」
と正直に言った者は、でっち上げの犯罪をなすりつけられ、刑罰を言い渡し殺されてしまいました。
全ては趙高の仕業です。

成句

この事件は、後に
「鹿をさして、馬となす。」
と言う成句となりました。
今まで、さんざんお手本にさせていただいた
wiktionary様の語解によると
は、
「道理に合わないことを、権力を背景に無理に言いくるめる。」
と言うことです。
 
会社にもいますね。
こういう人。
今はやりのアドラー心理学で解釈すると、
優等コンプレックスの人の典型として解釈できるかもしれません。
劣等感に絶えられなくなった人が、立場や権限を振りかざして無理を押し通す状態です。
あまり具体的な例を挙げると差し支えがあるので、ここでは述べませんが。
僕でしたら、とても恥ずかしくて口にも出せないような不可解な理屈を大声で述べて
「だから、君がやり方を変えなさい。」
と言う人がいらっしゃいましたわ。
なんとかにつける薬は無い。と、思いましたので、その後はあまり関わりにならないように注意してサラリーマン生活を右往左往しながら送っていますが。
 
家庭内であれば、子供に向かって、こういうことを言う人を毒親と言うのでしょう。
子供がだだをこねるのも、同じような優等コンプレックスでしょう。
 
いい加減馬鹿は馬鹿と理解して、まともな社会人生活を送りたいと思う。今日この頃でした。
 
春の足音が聞こえてきましたね。
長文におつきあいくださり、ありがとうございます。
おつきあいくださった皆様には、うきうき、わくわくの楽しい春を迎えられることをお祈りいたします。