真田の六連銭[むつれんせん]家紋の起源
— Daniel Yang (@DanielYang20) October 3, 2020
文献を掘り当てました👍
平安時代(源平合戦)でした
信州デジタルコモンズで探しました
「真武内伝」松代の真田藩が江戸時代にまとめたもの
7枚め
合戦中に皆既日食があったことで有名な水島の戦い
真田の主家である海野幸廣ですhttps://t.co/TclHdtzOIK
寿永二年三月平家は備中国水島にて数千艘の舟を催して心するの由相聞る汝行迎て追討すべき由勅命を蒙る義仲申上げるは罷在程にも無之可然大将をこそ選にすべしと申し上げれば汝が心に隋い可然と有ければ信濃国住人海野弥平四郎幸廣矢田の判官の代義清を大将として軍勢を差添られ寿永二年三月備中国水島に差し向けらるる道すがらの軍勢を差し加えられるべき由院宣を蒙り海野弥平四郎を士大将とて差し下さる七千余騎を弥平四郎矢田の義清両大将にて引率す平家は水島に数千人の人数にて舟を浮かべ相待所に両大将水島に趣き源氏も亦舟を浮かべて来出ず此時海野弥平四郎来出ず舟に波の紋あらわれ六連の如きあらわれければ此度士大将を承り悦の上に又波の紋あらわれし事吉事成りとて此時より家紋須浜を改六紋銭を家紋として幕の紋に改むる
木曽義仲に勅命が下った。「汝、行け。迎えて追討すべし」義仲は、「私がまかり出るほどにもありません。然るべき大将を選ぶべきです。」と申し上げた。すると、「汝が心に従いてよい。」とのことだった。七千余騎を海野弥四郎、矢田の義清両大将が率いた。平家が水島で数千人で舟を浮かべて待ち受けている所に赴いた。源氏もまた、舟を浮かべて海に出た。この時、海野弥平四郎がこぎ出した舟から波の紋様があらわれた。「六連の如きにあらわれるとは。このたび大将を承りよろこばしいうえに、さらに波の紋があらわれたことは吉事だ。いまから須浜紋を改め、六紋銭を家紋とする。」と宣言し、幕の紋を改めさせた。
感想
真武内伝は、江戸時代の松代藩の真田家が家系を遡ってものがたりしているものです。
平安時代から室町時代の末期までは滋野一族の筆頭である海野氏を物語して、
海野氏が滅びた後、諸家である真田が後を継いだという形です。
そういうわけで、祖先の海野幸広の活躍を誉れとして描いています。
引用した箇所=水島の合戦は、実際には木曽義仲を嫌った朝廷が策略を巡らし、都から木曽義仲を追い出すために出陣を命じたものです。
策略に気がついた木曽義仲は、少ない軍勢を海野幸広と足利義清に任せ、主力を引き連れて都に戻ってしまいます。
平家に対し、戦力的に劣っていた事も水島合戦の敗因の一つなのですが、それでは大将を任じられた真田のご先祖=海野幸広の誉れがしょぼーん(´・ω・`)となってしまうので、うまく取り繕っているな。と思いました。
この合戦で海野幸広は戦死します。では、どうやって、真田家まで続くの?と疑問に思うのですが、それは弟の海野幸氏が継ぎます。
当時の海野家は、木曽義仲とべったりでお先真っ暗な選択の過ちでした。
・ 幸親の長男=幸広は水島の合戦で戦死。
・ 幸親の次男=幸長は太夫坊覚明であり、木曽義仲の右筆で軍師として都入りまで片腕として活躍したものの、その後、たもとを分かち箱根山に入山。
・ 幸親の三男=幸氏は、木曽義仲の嫡子義高に従っていました。
幸氏は木曽義高が死罪を命じられる危険を感じ、身代わりとなって義高を逃がします。
身代わりむなしく義高は捕まりますが、海野幸氏は、その忠義に感じた源頼朝に御家人として取り立てられ、海野家は続いてゆく。
という流れです。
詳しくは、前のエントリーでも引用した
子助の部屋
http://koskan.nobody.jp/sanke_unno.html
を参照して下され。
海野幸氏から、最後の海野棟綱まで含めて、全員の名前が記されています。
江宮隆之の「真田幸隆」が面白いです。
最後に
ここまで「俺、すごいもの見つけちゃった」と真武内伝を引用しつつ書きまくりました。
書き終えてわかるのは、参考にさせて頂いた子助の部屋の記述など、真武内伝を一通り読んだ上で記されていて、
六連銭発祥のエピソードなども、滋野一族をお勉強されている方には、当たり前のエピソードらしい。と気がつきました。
ある程度の無知が、僕にこのエントリーを書かせたわけです。
今は、この無知の知も得たと思っています。
知るって素晴らしい。
それでは、気持ちの良い秋の行楽日和が続くことを願って筆を折ります。
また、そのうち