便所掃除をしていてふと思い至りました。
子供の頃に学校や家庭で、
子供の頃に学校や家庭で、
「便所掃除」
を罰としてやらされた人は、
長じて一人暮らしを始めた際に、
必要に応じて自分の便所を掃除する事も、
長じて一人暮らしを始めた際に、
必要に応じて自分の便所を掃除する事も、
苦痛に思うのだろうな。
と。
と。
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便所掃除に限らず、掃除全般、果ては家事全般は、
親元を離れて一人暮らしを始めた際に必要に応じて、
初めて、自分の生活を快適にするために取り組む機会になるケースが多いと思います。
親元を離れて一人暮らしを始めた際に必要に応じて、
初めて、自分の生活を快適にするために取り組む機会になるケースが多いと思います。
なにごとも初めてのことは上手く出来ないものです。
でも、その中で、
「あぁ、今まで親にやってもらっていたのだなぁ。」
と言う感謝の気持ちや、
「あぁ、今まで親にやってもらっていたのだなぁ。」
と言う感謝の気持ちや、
「上手くできなかったけれど、なんとか一人でチャレンジしてみたぜ。」
と言う達成感、
と言う達成感、
「次にやるときには、ここを工夫してみよう。」
と言う気付き。
と言う気付き。
など、様々な学習が出来ます。
これは、歓びでもあります。
人によっては、その後趣味の一つに加わる場合もあります。
便所掃除を趣味にする人はあまり多くないかも知れませんが、料理を趣味にする人、部屋のお掃除(と言うか、結露防止や、換気などの工夫で、部屋に工夫を凝らすこと)を趣味にする人のお話しは、よく耳にします。
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ところで、子供の頃に便所掃除(に限らず特定の家事)を「罰」として、繰り返しやらされた人は、
その家事を「趣味」にすることは思いもよらず、
「なるべく、自分ではやりたくない事」
にカテゴライズして、敬遠する傾向があるのではなかろうか。
「なるべく、自分ではやりたくない事」
にカテゴライズして、敬遠する傾向があるのではなかろうか。
例えば、
結婚すれば、なんとか配偶者の役割にさせ、
多少子供が大きくなったら、叱る際に罰としてやらせる。
など、自分以外の者に便所掃除(に限らず特定の子供の頃「罰」だった家事)を押しつけるようになるのではないかと思う。
僕は、本来子育てとは、子供が将来自活出来るようにする事を目指すものだと理解しているので、
例えば、便所掃除ならば、
自分が便所掃除している姿を子供に見せ、
「ほら、結構簡単にきれいになるでしょ。」
とか、
「磨けば汚れは落ちてきれいになるのよ。」
とか、
成果を歓びとして示し、
子が将来必要に応じて取りくむ事の出来るように配慮すべきと思う。
罰として便所掃除(に限らず特定の家事)をやらせるくらいならば、
いっそ子供には便所掃除などさせず、自分がやっているところも見せず、さっさと終わらせておくべきかと思う。
子供は、必要なことを案外勝手に学習するものであるからして。
それでもなおかつ、
「罰として便所掃除」
をさせると言うのは、
子供が自らの便所掃除を放棄するように仕向ける事になるのではないかと危惧するものです。
みなさまのご家庭が、暖かく幸せなクリスマスをお迎えされることをお祈りしております。