大河ドラマが始まりましたね(^O^)v
ってことで、真田家のマイルストーンを確認しようと思います。
この写真は三年前の正月(2013/1/4)に撮った上田城、東虎口櫓門。
僕は、真田十勇士をこの冊子で読みました。
さて、では本題を始めましょう。
858年:清和天皇即位
真田家は、清和天皇の末です。
断定的に記しました(^^ゞ
このエントリーでは、諸説あるなかで、僕の中のマイルストーンをまとめます。いちいち根拠を挙げません。あしからず。
このエントリーでは、諸説あるなかで、僕の中のマイルストーンをまとめます。いちいち根拠を挙げません。あしからず。
ちなみに、実際のところは、大伴氏の一族だったのだろう、との説を僕は支持しています(笑)望月の牧で、牧の経営者一族の末裔だと思うのですが、清和天皇の末としたほうが、わかりやすいので(笑)
873年:貞保親王親王宣下
管弦長者。音楽の達人です。ある日、宮中で琵琶を奏でられました。
音色に惹かれてツバメがやってきました。親王がそのツバメを仰ぎ見ると、運悪く、ツバメの落とし物が目に入り、失明。治療のために、信州へ下向されたそうです。
僕が読んだのは、小林計一郎著の「真田一族」です。
905年:善淵王滋野姓下賜
以降真田まで、本姓として「滋野」を名乗ります。
江戸時代の武士のほとんどが、源・平・橘・藤原の四姓のどれかを選んで僭称するなかにあって、真田だけが「滋野」です。と名乗るところが格好良いです。
950年:滋野恒信、海野幸俊を名乗る
ここでいきなり真武内伝の主張から、異説(古族滋野氏)に変更しますm(v_v)m
973年:海野幸恒海野庄下司となる
この本に記されている、「滋野通記」付「真田系譜之巻」では、
初めて海野を名乗ったのは、廣道。その長男幸直が海野二代目、と言うチガイがありますが、
海野幸恒は、幸俊の長男。海野二代目。
長男の幸明が、海野を次ぎ三代目。
次男の道直が、根津を名乗り、その子貞直が諏訪大祝貞光猶子となる。
三男の広重が、望月を名乗る。
ここに、滋野三家(海野、根津、望月)が勢揃いと言うわけです。
1183年:海野幸広六連銭[むつれんせん]家紋制定
水島の合戦で大将を務めた海野幸広。
合戦に先立ち、瀬戸内海に渦巻く鳴門を見て「お金に見える!金運良し!」と家紋をお金に変更しました。
この家紋制定の逸話は、江戸時代に松代藩により編纂された「滋野通記」が出典のようです。
詳しくは、以前記したエントリーをご参照願います。
合戦の最中に日食。
陰陽師との付き合いがあった平家は平然としていたけれど、源氏はびっくりして戦に負けた。と言う説もあるそうな。
幸広の弟、幸氏が海野家を継ぎます。
1300年代:真田家誕生
肝心なところがはっきりしませんが(^^ゞ
1400年:信濃守護小笠原長秀を退ける
1440年:結城合戦に参加
結番帳に「真田源太・源五・源六」の名が記録されているそうです。
1541年:海野平の戦い。海野家滅亡(T_T)/
甲斐の武田信虎が、諏訪、村上を誘って海野平に攻め寄せて来ました。
という流れになっています。
新田次郎の小説の後、ずいぶん研究が進んだようです。
現在は、山梨県の歴史学者平山優の研究が参考にされることが多いようです。
wikipediaの海野平の戦い
の出典は、全部氏の下記著作です。(買おうっと(^O^)v)
犬伏峠の別れで、お兄さんの信幸側に付き、信繁とは袂を分かつことになります。夏の陣には徳川方として、信幸の子二人に付き添って出陣します。
お父さん(真田昌幸)の従兄弟です。二人とも同い年のように見えるけれど、矢沢三十郎の方がだいぶ年上ですよ(笑)
1546年:武田信玄の家臣となる
海野家を滅ぼした武田信虎は、同じ1541年に信玄に追われ、武田家当主が信玄に代わります。
長くなったので、このエントリーはここでおしまいにします。
最後に、真田氏本城からの眺めを一枚貼り付けます。