daniel-yangのブログ

メインブログ「受動態」(読書感想文ブログ)とは異なる内容を気まぐれで記します。

真田家のマイルストーン

大河ドラマが始まりましたね(^O^)v
ってことで、真田家のマイルストーンを確認しようと思います。
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この写真は三年前の正月(2013/1/4)に撮った上田城、東虎口櫓門。
ちなみに、この年の上田城では、真田十勇士になることも可能でした(笑)2013/1/2撮影
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真田十勇士は創作ですが、登場人物に穴山甲斐源氏武田の一族)とか、海野、望月、根津(滋野一族)など、真田家ゆかりの名前をつけて、リアリティーを持たせています。
僕は、真田十勇士をこの冊子で読みました。
疾風六文銭 真田三代と信州上田
 
上田城内には、真田神社があります。
神社の拝殿前で「NHK大河ドラマに真田を!」の署名を集めていました。僕も(この二年前に)署名しました(^O^)v
 
さて、では本題を始めましょう。

858年:清和天皇即位

真田家は、清和天皇の末です。
断定的に記しました(^^ゞ
このエントリーでは、諸説あるなかで、僕の中のマイルストーンをまとめます。いちいち根拠を挙げません。あしからず。 
ちなみに、実際のところは、大伴氏の一族だったのだろう、との説を僕は支持しています(笑)望月の牧で、牧の経営者一族の末裔だと思うのですが、清和天皇の末としたほうが、わかりやすいので(笑)

873年:貞保親王親王宣下

貞保親王は、清和天皇の第四皇子です。兄弟には、陽成天皇や、清和源氏の祖となった貞純親王がいらっしゃいますが、真田家は、貞保親王の末。
管弦長者。音楽の達人です。ある日、宮中で琵琶を奏でられました。
音色に惹かれてツバメがやってきました。親王がそのツバメを仰ぎ見ると、運悪く、ツバメの落とし物が目に入り、失明。治療のために、信州へ下向されたそうです。
以上は、江戸時代の松代藩が編纂した真田家の歴史書の記述だそうです。
僕が読んだのは、小林計一郎著の「真田一族」です。
真田一族 (1972年)

真田一族 (1972年)

 

905年:善淵王滋野姓下賜

貞保親王の孫善淵王が、醍醐天皇より滋野姓を賜りました。
以降真田まで、本姓として「滋野」を名乗ります。
江戸時代の武士のほとんどが、源・平・橘・藤原の四姓のどれかを選んで僭称するなかにあって、真田だけが「滋野」です。と名乗るところが格好良いです。

950年:滋野恒信、海野幸俊を名乗る

ここでいきなり真武内伝の主張から、異説(古族滋野氏)に変更しますm(v_v)m
主張に即さないと、清和天皇からつながらないし(異説では、奈良時代にすでに滋野朝臣がいたらしいし。)以降の海野氏の歴史は、古族滋野氏の方が明快なのでm(v_v)m

973年:海野幸恒海野庄下司となる

この本に記されている、「滋野通記」付「真田系譜之巻」では、
初めて海野を名乗ったのは、廣道。その長男幸直が海野二代目、と言うチガイがありますが、
海野幸恒は、幸俊の長男。海野二代目。
長男の幸明が、海野を次ぎ三代目。
次男の道直が、根津を名乗り、その子貞直が諏訪大祝貞光猶子となる。
三男の広重が、望月を名乗る。
ここに、滋野三家(海野根津望月)が勢揃いと言うわけです。

1183年:海野幸広六連銭[むつれんせん]家紋制定

水島の合戦で大将を務めた海野幸広。
合戦に先立ち、瀬戸内海に渦巻く鳴門を見て「お金に見える!金運良し!」と家紋をお金に変更しました。
この家紋制定の逸話は、江戸時代に松代藩により編纂された「滋野通記」が出典のようです。
詳しくは、以前記したエントリーをご参照願います。
源平盛衰記に記されている水島(現岡山県倉敷市玉島)の合戦です。
合戦の最中に日食。
陰陽師との付き合いがあった平家は平然としていたけれど、源氏はびっくりして戦に負けた。と言う説もあるそうな。
海野幸広は、足利義清とともに、木曽義仲軍の大将として参戦。そして戦死。
幸広の弟、幸氏が海野家を継ぎます。

1300年代:真田家誕生

肝心なところがはっきりしませんが(^^ゞ
によると、元寇を迎え撃つ戦いに参加した、海野幸継の長男=海野幸春の次男=海野幸重の次男(つまり幸継の曾孫)=幸秀が、初めて真田を名乗った。らしいです。

1400年:信濃守護小笠原長秀を退ける

大塔合戦。協力して守護を退けた滋野一族土豪団の中に「実田」の名があり、これが、文献に登場する最初の真田なのだそうです。(大塔物語)え、じゃ、真田幸秀が祖ってどうしてわかったの?と疑問ですが(笑)

1440年:結城合戦に参加

結番帳に「真田源太・源五・源六」の名が記録されているそうです。
結城合戦は、南総里見八犬伝の語りはじめの戦です。あちらは創作ですが(笑)

1541年:海野平の戦い。海野家滅亡(T_T)/

甲斐の武田信虎が、諏訪、村上を誘って海野平に攻め寄せて来ました。

真田幸隆 (学研M文庫)

真田幸隆 (学研M文庫)

 
この小説では、真田信繁(幸村)のお祖父さん=真田幸隆が早くに父親を亡くし、主家=海野の養子になっています。諸処の資料と辻褄があいます。うまい設定ですねd(^-^)ネ!
海野平の戦いでは、よく戦うも、一族のうち、敵方諏訪氏の神党である根津、矢沢が降伏。雌雄が決した。真田幸隆は、養父の海野棟綱を助けて上野に敗走。海野家滅亡です。
江宮隆之の小説では、このときの矢沢は、真田幸隆の弟=頼綱(三十郎頼康の父親)ですが、新田次郎武田信玄では、別の土豪
新装版 武田信玄 風の巻 (文春文庫)

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この後、残党として砥石城に立て籠もり、さんざん武田を苦しめる。真田幸隆の調略で砥石城が落城した際に武田旗下に加わる事を潔しとせず、関東へ流浪の旅へ。
そこで、武田信玄が、絶えた矢沢家に真田幸隆の弟の据えた。
という流れになっています。
新田次郎の小説の後、ずいぶん研究が進んだようです。
たとえば、新田次郎の小説では、山本勘助は忍者ですが(笑)1988年NHK大河ドラマ放映時には立派な墓が見つかっており、時代考証では悩んだそうです。
この大河ドラマ時代考証の裏話は、上野晴郎が下記ムックで記されているのを参考にしました。

現在は、山梨県歴史学者平山優の研究が参考にされることが多いようです。

wikipediaの海野平の戦い
の出典は、全部氏の下記著作です。(買おうっと(^O^)v)
真田三代 (PHP新書)

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ところで、大河ドラマでは、真田信繁(幸村)に付きそう武将として矢沢三十郎頼康が出てきます。
犬伏峠の別れで、お兄さんの信幸側に付き、信繁とは袂を分かつことになります。夏の陣には徳川方として、信幸の子二人に付き添って出陣します。
お父さん(真田昌幸)の従兄弟です。二人とも同い年のように見えるけれど、矢沢三十郎の方がだいぶ年上ですよ(笑)

1546年:武田信玄の家臣となる

海野家を滅ぼした武田信虎は、同じ1541年に信玄に追われ、武田家当主が信玄に代わります。
海野氏滅亡時に許された根津氏の仲介や、山本勘助による武田家内調整もあって、真田幸隆は武田家に出仕。先方衆として、真田本城に戻ります。
 
長くなったので、このエントリーはここでおしまいにします。
最後に、真田氏本城からの眺めを一枚貼り付けます。
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ほいじゃ、今年一年、NHK大河ドラマを楽しみましょう。