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daniel-yangのブログ

メインブログ「受動態」(読書感想文ブログ)とは異なる内容を気まぐれで記します。

小僧の神様/志賀直哉 のあじわい

読みました

小僧の神様」を久しぶりに読みました。

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)

 

記憶の中の「小僧の神様

読み返す前の記憶は以下の通りでした。

あるところに小僧がいました。
小僧は寿司が食べたかったけれど、安月給なので食べられませんでした。
物欲しそうに寿司屋の前にたたずんでいると、金持ちに声を掛けられました。
「寿司をたらふく食べたくないか?」
と。
小僧は
「うん。僕、寿司をたらふく食べたい。」
と答えました。
「食わせてやろう」
金持ちはそう言うと、小僧を寿司屋に連れて入り、寿司屋の主人に大金を渡し、小僧に
「さあ、好きなだけ食え。」
と言いました。
小僧は、無我夢中で寿司をつまみ、お腹が一杯になったところで我に返りました。
いつしか金持ちの姿は見えなくなっています。
不安になった小僧が寿司屋の主人に
「おじさんは?」
と聞くと、
「先に帰ったよ。お代は充分に頂いているから、まだ食べても良いよ。」
と答えました。
小僧は金持ちが神様だったのでは無いか。
と思いました。
先ほど読み返してみたところ、だいぶ違ったので日記に記そうと思った次第です。

読書の勧め

ちなみに、この小説はとても短い短編小説です。
僕が今読んだ新潮文庫(1985/6/10第35刷り改版)では、114ページから126ページまで。合計13ページです。

読むのに要する時間も僅かです。

もう一度読んできます。現在21:16

 

読みました。現在22:15
読みづらそうな漢字を拾い上げながら、ゆっくり読みましたが、一時間もかかりませんでした。
楽に読めます。
皆様も、ぜひとも読んで味わって下さい。

ほんとうの「小僧の神様

読んで先ず気が付くのは、
小僧の側からの描写と
小僧に奢る男の側からの描写が
交互に記されていることです。
ここいらへんから、徐々に、大々的なネタ晴らしになります。ネタ晴らしを好まぬ方は、読書に移って下さりませ。
この小説は、
・ 小僧が「神様かも」と思うこと
と、
・ 小僧に「神様かも」と思われる男
の小説です。

 

wikipediaでも、小僧の側からの描写箇所のみを抽出してこの小説を解説していますが、奢る大人(名前はあかされず「A」と記されます)側からの描写が交互に描かれる小説です。
 
・ 小僧に「神様かも」と思われる男
 

の側からの描写こそ、この小説で著者が読者と心を通わせたいと願ったことが描かれているように思います。

少なくとも僕はそのように読みました。

それを伝えたくて、本日ブログのネタにした次第です。

少年が恥をかく

Aからの描写で小僧を十三、四歳と記しています。そこで、以降は「小僧」ではなく、「少年」と記します。
少年は、寿司屋に入って、
「一貫だけちょうだい。」
と言う事がはばかられることを知っています。
現代で言えば、まだ義務教育期間中の年齢で、学校にも通わず働いている少年ですが、しっかりと常識を身に付けて、仕事をこなしていることが解ります。
それでも、番頭の話に興味をそそられた少年は、意を決して暖簾を潜ります。
その様子を見ていたのがAでした。
電車賃を浮かしてへそくりした四銭を握りしめていた少年は、
しかし、インフレーションの影響で六銭に値上がりしたまぐろの握りを食べられなかったのでした。

Aが寿司をおごる

Aは、後日この様子を友人Bに話しました。
Bは
「御馳走してやれば良い。」
と言います。
Aは、しかし、御馳走してやることを
「冷や汗ものだ」
と、出来ない旨をBに話します。

 

さらに後日。
Aが買い物の用事で立ち寄ったお店での出来事です。
期せずして、そのお店で働いている少年を目にしました。
とっさの思いつきで、Aはお店で買った品物の配達に少年を指名します。
そして、用事が済んだあと、少年に寿司を奢ってしまいます。

 

家に戻って、Aが妻に言う心境は、
「淋しい気がした」
です。

 

さらに掘り下げて、
「変に淋しい、いやな気持ち」
と少年に奢った事を後悔している様子です。
それを称して
「人知れず悪い事をした後の気持ちに似通っている」
と言うことです。

 

「不快な感じで残らなくてもよさそうなものだ」
偽善を誇らしげに感じる間違った感覚を恥じているのか?
と、自ら分析を試みますが、結論は出ません。
小説で描かれているのは、ここまでです。

味わい深い小説

Aが感じた「淋しい感じ」の正体は、小説の中では明らかにされません。
ですが、読者は、それを言葉にして
「こういう感覚でしょ。」
と納得することが出来ます。

 

作中で、Aの妻は軽薄に「わかるわ」と同意をしたふりをします。
友人Bは、よく考えもせずに「義を見てせざるは勇無きなり」と言わんばかりに
「勇気がないのだろう。」
とAを冷やかします。
A本人も、淋しさの正体を突き止めることが出来ません。

 

読者は違います。Aが感じた淋しさを、自分が成長する間に身に付けた倫理観に照らし合わせて「おごった心を、自分の無意識に見透かされている恥じらい」と言葉にすることが出来ます。
また、読者は、しかし全ての人がそのような倫理観を身に付けているのでは無いことを知っています。

身近な人とのあいだでも共有出来ない感覚

倫理観を共有しない人に、この感覚を説明しても、愉快な事は無い。と大人になると知っているものです。
相手が「倫理的」だと思っていない事を、倫理を理由に咎めた場合、
相手は、理不尽な難癖を付けられたと感じ、反撃にでてくる可能性があります。
この場合、自分が相手と倫理を共有していない事に気が付くショックに加え、
反撃による、自分の倫理の否定が二人の関係を破壊します。
大人になると、一度や二度は、このような経験をしているものです。
ですので、大人は、きわめて親しい友人や、恋人に対しても警戒して、倫理を理由にすることを避けて会話を組み立てます。
 
ちなみに「大人は警戒して身近な人にも倫理の話はしない」と書いておきながら、それをブログとして公表する事は矛盾である。と僕も気が付いています。
でも、今日は、このブログを読んでくれた人の中に、きっと僕と同じ感覚を持っている人がいて、共感出来るはずだ。と楽観的な希望を持って書いています。

 

そう言うわけで、この小説を読んで、理解しても、人に説明するときには
「小僧が寿司をおごってもらって、おごった大人を神様かもしれない、と思う小説」
と、うわべだけの説明をして、誰にも、この小説のほんとうの味わいを説明しません。

 

倫理観には、教科書に答えが書いてあるような正解がありません。
また、地域や世代によっても大きく異なるものです。
特に現代人ならば、この倫理観が外国では通用しない場合が多々あることを知っています。例えば、インドだったら、これは「喜捨」と理解されるでしょう。Aの淋しい気持ち自体が小説のテーマとして成り立ちません。
日本の国内でさえも、Aの妻やBが理解出来なかったように、共有がむずかしいものです。

 

そして、著者は、一部の読者だけでも良いから、理解出来る人に共感してもらおう、と全ては書かず、小説をおしまいにしたのだろうな。
と読者は、一人納得します。
そして、
「著者の意図は、僕が受け取ったよ。」
と密かに心の中で思うのです。

 

これがほんとうの「小僧の神様」の味わいです。
と、僕は読みました。
 

2016/7/1追記

この日記は、当ブログとしては、大変アクセスが多い人気記事なのですが、
検索したら、もっとわかりやすく的確な解説がありました。

ameblo.jp

僕もこんな解説を書きたいものです。